| 西暦 |
年齢 |
年譜 |
| 1886 |
0歳 |
9月24日、イギリス、ウォーリックシャー州バーミンガム郊外のモズリーに生まれる。 |
| 1902 |
16歳 |
モズリーのウィンターロー・スクールを卒業。 |
| 1903 |
17歳 |
医学の道に進むことを決心する。医学校進学の学費を作るために、父親が経営する鋳造工場で3年間働く。
ウォーセスターシャー義勇騎兵隊に入隊する。 |
| 1906 |
20歳 |
バーミンガム大学医学部に入学する。 |
| 1912 |
26歳 |
バーミンガム大学医学部を卒業する。
外科医の学位(M.R.C.S.)を取得する。
内科医の学位(L.R.C.P.)を取得する。
ロンドンのユニバーシティ・カレッジ病院に研修生として入局する。 |
| 1913 |
27歳 |
医学学士号の学位(M.B.)を取得する。
理学学士号の学位(B.S.)を取得する。
ロンドンのユニバーシティ・カレッジ病院の救急医療担当官になる。
同年末には、国立更生病院にも所属する。 |
| 1914 |
28歳 |
公衆衛生博士号(D.P.H.)の学位を取得する。
第一次世界大戦が勃発する。
医療の中心地であるハーレー街に診療所を開設する。
免疫学に関心を寄せる。
ユニバーシティ・カレッジ病院で細菌学者のポストに就任する。
人間の腸内細菌が生産する毒素が、慢性病の原因となっていることを発見する。
人間の腸内細菌から作ったワクチンを使って、慢性病患者の症状を改善することに成功する。 |
| 1917 |
31歳 |
戦争で負傷した人々のために休むことなく診療に携わる。
極度の疲労が重なり、病院の研究室で大出血を起こして倒れ、昏睡状態に陥る。
緊急手術を受けて意識を回復するが、末期の胃癌と診断されて、余命3か月であると申し渡される。
体調が回復しないまま病院の研究室に戻り、再び研究や診療に没頭する。
バッチ博士の研究室の窓の灯光は“The light that never goes out”「永遠に消えない光」と呼ばれる。
奇跡的に癌を克服する。 |
| 1918 |
32歳 |
インフルエンザが大流行し、バッチ博士が実施した予防接種が数千人の命を救う。
ユニバーシティ・カレッジ病院を退職する。
ノッティンガム・プレイスに小さな研究所を開設する。 |
| 1919 |
33歳 |
王立ロンドン・ホメオパシー病院の病理学者および細菌学者のポストに就任する。
ホメオパシーの創設者ハーネマンの著書“The Organon of Medicine”(医学原論)を読む。
これまでの研究がハーネマンのホメオパシー理論と似ていることに気付く。
腸の毒血症(腸内のある特定の桿菌が生産する毒)について研究を深める。
慢性病を起こしうる多種類の腸内桿菌を「7つのバクテリア・グループ」に分類する。
1.Proteus(プロテウス菌)
2.Dysentery(赤痢菌)
3.Morgan(モルガン菌)
4.Faecalis Alkaligenes(アルカリ大便菌)
5.Coil Mutabile(変形大腸菌)
6.Gaertner(ゲルトネル菌)
7.No.7(第7菌)
7つのバクテリア・グループは、7つの人間性(性格や感情のタイプ)に符合することを発見する。
慢性病患者の人間性(性格や感情のタイプ)に合わせてノソードを決めるという治療法を発見する。
7つの経口ワクチン“The Seven Bach Nosodes”(バッチの7大ノソード)を開発する。
※ノソード(Nosode)とは、疾病から獲得された治療物質を意味する。 |
| 1920 |
34歳 |
ロンドン・ホメオパシー学会の会報で「ワクチン療法とホメオパシーの関係」と題する論文を発表する。 |
| 1922 |
36歳 |
王立ロンドン・ホメオパシー病院を退職する。
ポートランド・プレイス、パーク・クレセントにある大研究所に移る。 |
| 1924 |
38歳 |
ロンドンで開催された英国ホメオパシー学会で「癌と腸内毒血症の関係」と題する論文を発表する。
腸内毒素の生産量を減らすために未調理の食物(野菜、果物、雑穀、ナッツなど)を摂るように提案する。 |
| 1926 |
40歳 |
フィーラー博士との共著『慢性病−有力な仮説』を出版する。 |
| 1927 |
41際 |
ロンドンで開催された国際ホメオパシー学会で「乾癬と腸内毒血症との同一性」に関する論文を発表する。 |
| 1928 |
42歳 |
ロンドンで開催された英国ホメオパシー学会で「乾癬の再発見」と題する論文を発表する。
この講演で「近い将来、新しい相乗法が見つかるでしょう」と述べてフラワーレメディの発見を予見する。 |